箱庭円舞曲という場で、闘う意味について。

どうも、須貝です。

箱庭円舞曲、明日初日です。

第十七楽章。あっという間ですね。僕は第七楽章から出ていて間に一度、本公演に出演しなかったことがあったので、これがちょうど本公演では十公演目の作品となります。

僕にとって箱庭円舞曲という団体の意味はこの五年半の間にどんどん変わっていっており、修行の場から本拠地になり、責任や重圧になり、ホームになってまた今、違う場所へと変わりつつある。

僕は言っても30に満たない若造なのでよく分からないと言えば分かりませんが、今の時代で何かと真剣に向き合って闘うことの出来る機会というものは、どんどん限られてきているのかもしれない、と考えることがあります。それはもちろん個人差があるでしょうけど、なんとなく。
あくまで日本の話ですが、70年前は「闘う」といえば文字通りの戦争であり、その二十年後には仕事において使われる言葉に移り変わっていき、そして今、それは行き場を失ったように宙ぶらりんな、最早明確なイメージを持たない言葉のような、そんな気すらしたり。

以前は「闘うこと」と「生きること」は同じ意味を持っていたはずなのに、今ではずれが生じてしまい、「生きること」だから意味なんか求めなかったはずのそれに、過剰に意味を求めたり理由を与えたりしているのではと思うことがあり、価値観が、世界が変わってきているのだとたった数年のスパンですら感じます。

そんな中で、芸事は生きることから直接的には離れたものですから、時代や風俗にあまり左右されず、本質は古代ギリシャの仮面劇の頃からさほど変わっていないんじゃないだろうかと思うことがあります。生きた時代も環境も違う芸術家たちに深い共感を得る時、彼らが闘っていたものと自分が闘っているものが確かに同じものなのだと知ります。それは驚きであったり喜びであったりします。

芸事は生きることの余剰のこと、エンターテインメントだと思って携わっていても、不思議と、闘いを重ねるにつれて、それが生きることになってきました。人を楽しませるためのものなんだから、それに生き死にを持ち込むのは馬鹿げていると以前は思っていたしここでも書いたし今でもそう思う一面はありますが、「闘う」ということがいつしか自分の関わる演劇に生命を与えて、今では「生きること」と離れがたく癒着してしまいました。今の自分は芸事を通じて生きもし、死にもするようになったのだと、感じます。

分かりやすく言うと、大きく言えば演劇で、限定して言えば箱庭円舞曲という場所で闘うということが僕にとって生きることになり、僕は生きている限りそこで闘わねばならないような、そういう人生に追い詰められ始めているようです。いい意味に聞こえないかもしれません。それがいいかどうかは僕にも分かっていないからですが、僕にとって自然な流れであることは確かです。

男だろうが女だろうが生きている限り闘っているのが格好良いし、彼らが身を置く場所は出来ることなら闘う意味のある、生命の重さに見合う場所であって欲しいんです。

以前より稽古場で感情を露にすることが多くなりました。不機嫌さや不愉快さや怒りや悲しみや喜びや安堵を隠せなくなってきました。余裕がどんどんなくなっていきます。僕が思い描いていた大人よりどんどん格好悪くなっていきます。

しかし、その今の、格好悪い自分が出来ることの方が、昔思い描いていた大人の自分よりもきっと多いだろうと、そういう妙な確信が何故かあります。

こうなってくるともうその場が好きかどうかとか必要かどうかとか、そんなことはどうでも良くなってくるんです。意味を求めることをやめ始める。ただそこに在ることに、真摯に必死になっていく。それでいいと思えてくる。

だから、観て欲しい。そういう作品です。明日から13日までノンストップで待ってます。

http://www.quartet-online.net/ticket/hakoniwa17?m=haacagg

Previously