どうも、須貝です。
箱庭円舞曲第十七楽章、『いつも誰かのせいにする』が本日で千秋楽を迎えます。
ちょっと早いですが、ご来場下さった皆様、ありがとうございました。そして本日ご来場になる皆様、お楽しみに。
昨日出演者の原田優理子嬢とも話していたのですが、今回の作品は終わりが見えなかった。作品的にも難しいものだったのでラストに至るのに苦労がたくさんあり、長期間の公演ということもあって物理的に終わりが見えない気持ちにもなりました。
2時間経てばこの物語は終わるし、11日間経てばこの公演も終わるのです。でも、それらを時間任せにするわけにはいかない。ちゃんと僕らの手で始め、僕らの手で終わらせなければならない。
物語かどうかということの判断基準は、僕は一つしかないと思っています。少なくとも今は。始まりがあって終わりがあるもの。それだけなんじゃないかと思っています。
未完の大作とか絶筆とかそんな形で世に出される小説、有名なものも多々ありますが、どうもそれらを物語としてしまって良いものかどうか、悩むことがあります。なぜなら書いた本人たちが一番納得していないであろうから。きっと彼らだって終わらせたかったはず。「ここまででいいや」なんて風に放り出せる人はいないと、もしいたとしてもその人をクリエイターとして認めるかと言われても、僕には出来ない。
物語とは、変わりなく流れ続ける時間に始まりと終わりを与える作業だと思います。
だから、小説だろうが戯曲だろうが映画だろうが、そんなジャンルに関わることなく、始まりと終わりがあるものは物語であり、逆に小説だろうが戯曲だろうが映画だろうが、そんなジャンルに関わることなく、始まりと終わりのないものは物語ではないと、そんな気がします。
横尾忠則さんが言ってらっしゃったと思うのですが(確か)、「絵はいつまででも描き続けられる。難しいのはそれを終わらせることだ」といったようなことをおっしゃっていて、その通りだと思いました。
きちんと、僕らの手で、僕の手で、誰のせいにも何のせいにもすることなく、終わらせてきたいと思います。
行って来ます。