十五年目に、十五年間のこと。

どうも、須貝です。

2005年に始まったこのブログも本日(本当は昨日)ついに15周年を迎えました。遅々としたペースで進めて参りましたが、長らくお付き合いいただき誠にありがとうございます。この記事で740投稿。いっときは年100更新とかしてたなあ…。

今回は五十音シリーズを離れて、簡単にこの15年を振り返ろうかと思います。

○2005年

20歳。ブログスタート。大学生でした。常々このブログでも言ってますが、正直昔のことは思い出したくないです。最近やっとマイナス分を返し終えた気がする。

開始当初はgooブログでしたね。響き自体が懐かしい。アメブロもまだメインストリームじゃなくて、皆mixiとかやってた気がします。

20歳になったし何かやらなきゃという気持ちと、文章を書く訓練をしたいと思って始めたこのブログ。文章を書いてお金をもらえる日がいつか来ると、よく分からない自負があった。けど、当時本当にそうなるとは想像できていなかった気がします。

自分でちゃんと脚本書いて演出したのもこの年だったような気がする。箱庭円舞曲の古川さんに会ったのもこの年だと思います。

○2006年

この時は舞台音響もやってました。劇団競泳水着の上野さんと会ったのってこの辺りだったんじゃないかな?最初は音響で関わったので。

○2007年

22歳。大学卒業。あんまり授業行った記憶ないんですけど、なんとか卒業できたんですね。卒論書きながら稽古と本番やってたのは覚えてます。

今思うと、早稲田の授業ってほんとに面白い授業が多くて、なんで当時もっとちゃんと受けなかったんだろうって後悔することが多くて。今の自分を形作る知識とか見識とかって大学の授業で得たものも多いなあと思います。特に美術史の授業はどれも面白かった。

そんなに交流があったわけではないんだけど、卒論の指導をしてくださった星山教授の印象がすごく強いですね。もう随分なおじいちゃんだったんですけど、卒業の時にご挨拶したのが今でも思い出されます。ちゃんとお話したのは二、三回だったと思うのですが、覚えてくださっていて嬉しかったです。

あとは今年退職されましたが、丹尾教授の授業も面白かった。早稲田大学文学部の美術史学科には、今はどうか分かりませんが六泊七日(だったかな?)で京都に旅行するというイベントがありまして。そこの何日目かで僕はしこたま飲み、翌日ひどい二日酔いになって。その日僕の属する班が丹尾教授と京都市内を回る予定だったのですが、集合に遅れ、道中何度か具合が悪くなり、班の人にも教授にもめちゃくちゃ迷惑を掛けた。どこだったか完全に忘れてしまったのですが、薬師如来さんを観に行った時に、「今の君のための如来さんだから、精一杯お祈りしなさい」みたいなことを言われて、気遣ってくださったんだと思いますが、ありがたく面白かった。

当時って何考えてたんだろ。就活も全くしなかったですね。でも別に事務所に所属してたとかでもないし、めっちゃ売れてたとかでもないし、なんでそんな無謀なことができたのかと思う。今もそうだけど考え方が甘かったのかもしれない。小さい規模のお芝居をとにかくいっぱいできるのが楽しかったのかもしれない。

この年に箱庭円舞曲に入団しました。柿喰う客に初めて参加させていただいたのも2007年だったと思います。柿の皆、当時の出演者の皆と出会えたことは今の自分にとってすごく大きい。

○2008年

ブログを見直してみると、箱庭のじじさんにお子さんが生まれたのが2008年。つーことはあいつ、もう12歳か!感慨がすごいな!

この年の4月に、人生初の海外旅行でフランスに演劇しに行きました。自分の価値観を大きく変える出来事でした。この出来事がなければ、多分今の自分は存在していないと思う。話を持ち掛けてくれたてあとろの先輩・岡部さんには本当に感謝しているし、今でも交流があるのが嬉しいです。

向こうの観客に触れられたことも大きいし、韓国の皆と出会えたことも大きいなあ。ゴニ君やウンジョン君は今でもたまに連絡取る。会いたいなー。

そして吉祥寺シアターで柿喰う客の『真説・多い日も安心』をやってました。ということはモノフォニの大石くんとちゃんと知り合ったのも多分2008年ですね。佐藤みゆきさんとか浅野千鶴さんとかと会ったのもこの辺かな?

こういうの、改めて調べないと全然覚えてない。

○2009年

王子小劇場の主催する佐東佐吉演劇祭で2009年度の最優秀主演男優賞をいただきました。色んな人に獲らせていただいた賞でした。玉置玲央くんの主宰するカスガイの『リビング』という公演で、作品も好きだったから印象に残っています。

そしていまだに言われる伝説の河童役でシアタートラムを存分に楽しんだ柿喰う客『悪趣味』も2009年。齋藤陽介とちゃんと一緒になったのがこの時で、以降ちゃんと共演するのってだいぶ後まで飛ぶんですよね。

乱痴気公演(全員本役とは違う役を演ずるスペシャルなステージ)で永島敬三と役をシャッフルされたのがいい思い出です(僕と敬三の二人の台詞量が最も多かった)。

○2010年

25歳。monophonic orchestraという企画を立ち上げました。旗揚げ公演は四苦八苦でした。一回でやめるつもりだったんだけど、この時何もできなかったという気持ちが強くて以降も続けることに。

創作の原動力って、成功体験よりも怒りや悔しさのようなものが多いと思います。

そしてこの年に倉本さんを始めとしたオーストラ・マコンドーの皆さんと出会いました。これも重要な出会い。

○2011年

東日本大震災の年でした。死ぬまで忘れることはないでしょう。

今、新型コロナウィルスが蔓延し、世界の根幹が揺らいでいます。悔しいのは、2011年に色々な問題が浮き彫りになり、改め見つめ直すチャンスだったのに、9年経った今も問題が解決していなかったことが突きつけられたことです。

例えば東京一極集中であるとか、俳優の地位の向上であるとか。日本の演劇ってなんなんだろって認識とか。今度こそこの出来事から学ばねば未来がない。

震災の直後に書いたブログを読み直して、ここに書かれてある点に関しては今も昔もあまり考えが変わっていないので、ここに載せておきます。

「できることの違い。」

ただ、今回は明らかに人災に属する問題も付随してきているので、一概に同じとは言えません。政府に対する怒りと失望も大きい。また別の機会に書くか、作品に反映させたいと思います。

この年に中止になって翌年上演された『リメンバー』という作品と、こりっち舞台芸術まつりでグランプリを獲った箱庭円舞曲の『珍しい凡人』という作品が本当に強く印象に残っています。

○2012年

『誇らしげだが、空』という作品に出演しました。多分初めての商業的な作品で、たくさん勉強しました。

○2013年

箱庭円舞曲を退団しました。この年から第二の演劇人生が始まったような気がします。その時の気持ちなんかはブログに載ってるので、興味があったら覗いてみてほしいなと思うのですが(「秋の夜長に。」)、多分死ぬまで忘れないだろうしもう一度同じ経験はできないだろうと思う経験を、この時に生まれて初めてしたんじゃないかと思います。

そして、友人が自死しました。以降、書く作品が変わったと思う。

○2014年

俳優のための、通年ワークショップを始めたのがこの年。学んだなあ。現在第三期までやってます。来年またやろうかなと目論んでます。

小沢道成くんと一色洋平くんのために『谺は決して吼えない』という作品を書き下ろしたのがこの年。この辺りから、脚本家で食べて行くことをちゃんと考え始めた気がする。30歳になる年でしたしね。

○2015年

この年、モノフォニで3回も公演打ってるんですね。生き急いでんなあ。

○2016年

この辺からまた、記憶が曖昧で。大体その時どんな作品やってたかでその年を覚えていたりするんですけど、とにかく色んなことやってた気がする。

同級生演劇部をみゆきさん、千鶴さんと旗揚げたのもこの年。

○2017年

この年、めちゃくちゃ仕事してるんですよ。ブログ全然更新してない。中でも『グリーンマーダーケース』は思い出深いですね。この公演を河原雅彦さんに観ていただいて、その後のお仕事がある。

ずーっとなんか書いてたなあ。この年に結婚しました。

○2018年

monophonic orchestraが活動休止。2年前なんですね。もっと昔のように感じます。
この年も印象深い作品が多いです。山田佳奈さんと亀島一徳くんと作った『カラオケの夜』は映画まで撮っちゃいましたし。

中でも印象に残っているのは愛知県豊橋市に滞在して制作した、高校生と創る演劇という企画。PLATという劇場主催で、高校生たちとこれもまた四苦八苦しながら作品に向き合いました。レベッカちゃんと岩永彩ちゃんと一ヶ月半過ごしたのも楽しかった。今でも最も活発なLINEグルーブが3人のグループ。

なんというか、どの仕事も誇りを持ってやってるんですけど、この時の仕事を心から誇りに思っている。若い方と仕事ができる、先に繋がる仕事をできるというのは、とてもありがたいことなんですね。僕らはいつか死ぬので。

前述した「多分死ぬまで忘れないだろうしもう一度同じ経験はできないだろうと思う経験」を、この稽古中に何回かしていて。皆とお酒を飲めるようになったらまた語りたいですね。

この年にがんが見つかりました。その辺の経緯はこちらの記事で紹介しております。

「愛するということ。」

○2019年

さあ、ついに去年だよ!

去年は久々に3本も出演がありました。俳優って疲れる。『オリエント急行殺人事件』に関わらせていただいたことも大きかったですね。

『カラオケの夜』で賞をいただいたり、二つの企画の旗揚げに関わらせていただいたり(旗揚げ公演に関わること多いな自分、と思います)、演出やったり、マイペースでやらせていただきました。いい一年でした。

○2020年

と、いうことでついに今年。最近のことは最近のブログで書いているので割愛して。

15年目になりますので、区切りです。10年目の時は特になんもしなかったな、今年は何をしようかなあと考えました。今回のちょっとした本題です。節目に何かを始めることを今まで考えておりましたが、逆にやめることもありかなと。

そう思ったので、Twitterを退会することにしました。

monophonic orchestraの方のアカウントも最近は全く運用していないので、一緒に削除しようと思います。2010年の6月に僕はTwitterを始めたようなので、10周年ということで、6月いっぱい残しておくつもりです。instagramもやめるべきかなと思ったのですが、細々やってるんで、そっちは残します。

そして、出演情報などを配信することに特化したTwitterアカウントを改めて作成するつもりですが、それは追々。

本当に、大したことじゃあないんですけどね。そんなにフォロワーも多くないし。でも、最近の流れを見ていて、思うことが多かったんです。このツールが生まれた時には誰も考えなかったことが起こり始めている。随分前からそうだったけど、今の世の中の雰囲気の中で、より強く感じられるようになってきた。

簡単に言えば、人を言葉によって殺す力を持つツールに、加担しているのが嫌になりました。

タイムライン上で見ていると、誹謗中傷する人が悪い、特定して断罪すべきだという流れと、そんなの気にするやつが悪い、という流れがあるようです。どちらの意見も分かります。どちらかと言えば誹謗中傷する人は犯罪を犯しているので、それはきっちり法的に対処すべきだと思います。

それ以前に自分は、Twitterというツールを提供している側の問題も大きいと思います。もはや自由に楽しんでいい時代は終わったのだということに、対応していないように思われます。誰かが自由に、好き勝手に放った言葉が誰かを殺したのであれば、その自由はもはや誰かの自由を阻害しているわけで。

ですからTwitter側が、アカウントの作成の際に、そして既存のアカウントも全て含めて、利用者に本人確認書類の提出を義務付けるべきだと僕は思います。Twitter社は日本から撤退しつつあるようですが、関係ない。責任は取るべきです。

スコットランドヤードが誕生する前のロンドンでは、安価で酔えるジンが大量に流れ込み、それが犯罪の増加を促進させたそうです。同じことのように感じます。手軽で誰もが酔える酒。

例えば、「人を殺しても絶対にバレないナイフ」が無料で配られたとして、そのナイフで人を殺さない人は半分もいないと思ってます。人間の良心を過信してません。人類の半分はクソだと思ってます。価値観が異なるからね。僕だってその半分のクソに属しているんです。世界はそうやって回っていると思う。それを、自分が属している側が正義だと酔わせるのがSNSだと僕は思うんです。

世界が広がったことで、世界が分断されている。そう感じます。

だから、自分が被害者になること、加害者になること、両方を予防するためにやめます。今の自分には必要ありません。

35歳の自分は、少しずつ何かを削っていくことをようやく考えられるようになった気がします。

最後に。今までの内容とちょっと関係ないんですけど。

私たちは、今、考えなければならない。私たちの命は、重くもないし尊くもない。僕は常々そう考えています。なぜならあまりにも簡単に、無慈悲に、世界中で、これらは失われていくからです。その価値も平等ではない。まず僕らはこの事実を早々に受け入れるべきです。

命の前では誰も特別扱いされない。私たちが生まれてきたことがいかに遠大な奇跡の連続の末端にあるかを知らなければならない。それが綱渡りのように維持されているに過ぎないことを。そしてその事実がいかに歪められているか、歪んで認識されているかを。考えを改めなければならない。

僕は、重くないこの命を重く、尊くないこの命を尊く、平等ではない命を平等に扱っていこうというその道のりが、過程が、その意志の表明と実現しようという不断の努力が、それが美しく尊いのだと思います。

そしてその不断の努力こそが、文化であり文明であると考えています。

私たちの多くが、私たちは尊いのだ、尊重されてしかるべきなのだと無条件に信じ込んでしまっているから、今の日本が陥っている状態が生まれているのではないかと僕には思えます。そして、理不尽に尊重されない方々、あまりにも悲惨な状況に置かれた者たちの声が雑音にかき消され、その声を聞こうとする者があまりにも少ないのだと、僕には思えます。

僕たちがしがみついているたくさんのものの内、この手に本当に握っていなければならないものが何なのか、僕らはこれから考えて選び取っていかなければならないと思っています。

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