ホワイト・ライト


どうも、須貝です。

今少し眠れなくて、久々に二日連続更新です。

台本読んだり、ギャオではじめの一歩を観たり、佐野功さんに借りたジャイアント・キリングを読んだり(めっちゃ面白いからきっと買うんだろうな)、ホチキスのけんたろうさんに借りた北方さんの水滸伝を読んだり、ツタヤで借りたCDや兄に借りたCDを聴いたり、もう最近興奮して夜が長いです。

桜をちゃんと見られないままに散ってしまうと思っていたら、中野南口のヴェローチェ前の桜が見事で、もう今年は充分花見出来たなと満足したのでした。

このヴェローチェは人生初バイトした所で思い出深く、この桜を見るのも七回目?になるのかな?感慨深いですね。七年前の自分なんてよく覚えてねーや。上京してからずっと同じ所に住んでいるので、毎年毎年この道を歩く度に初心に帰るような気がします。

今日は帰り道に見事な半月を観て、日本人ってとかくぼんやりしたものが好きだなと思いました。今日の半月は少し雲がかっていて、薄ぼんやりとしていたのでしたが、桜も小さな花がぶわっとあるもので、僕にとってはどちらも「白いぼんやりした光」という感じで、共通点があるように思います。

月ははっきりと輝いているものよりも、薄い曇り空、霞んでいる方がずっと美しいと思います。

最近、自分はなぜ舞台に立つのだろう、演劇というものに携わって何をどうしたいんだろうと考えることが多く、そう考えた時に、自分の中が空っぽであることに凄くがっかりしていました。

世界を救いたいのか?誰かの人生を変えたいのか?どうしても伝えたい言葉があるのか?訴えたい思いがあるのか?有名になりたいのか?お金を稼ぎたいのか?僕には、何もありません。呆れて物も言えないくらい、誰かに誇れる理由が無い。

それを仕事に出来ているわけでもないのに、何をどうしたくてやっているんだ?やりたいからとか好きだからとか、そんな理由ではこういうことをやってはいけないような気がしています。

自分は、憧れただけなのだろうか。映画やお芝居が好きで観ている内に、自分もやりたくなったから、ただ何となくそうなれる気がしてやっているのか。それは果たして本当の衝動なんだろうか。

そんなのんべんだらり、漫然とやっていていいんだろうか。それならもっと生産的な何かがあるんじゃないだろうか。

何か特別な才能があるわけでもないのに、ダラダラと関わり続けるのは罪なような気がしました。いつか自分を徹底的に許せなくなったら、自分に一つも期待出来なくなったら、離れるんだろうか、と思いました。

それでも今日は、月を見ながら、憧れているってだけでも別に理由としては許せる、という気がしました。何も無理に大義を抱かなくてもいい、上を見上げて求めて追って、ああなりたいこうなりたいという欲を持つのは凄く人間的だとも思いますし。

それでも自分の中に語るべき何物もないのは辛い。非常に辛いです。

月の明かり、桜の散り際、そんな白い光を見ている内に、山形の雪が何となく思い出されて、どの光も冷たくはないんだなと不思議な気持ちになりました。

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