一人、立つ、二足、夜いまだ青し。


どうも、須貝です。

最近故あって、愛について考えています。

勘違いしてはいけません。恋をしているとか好きな人が出来たとかそういうことではありません。僕も残念です。

なぜか分かりませんが、愛について考えています。25歳にもなって愛とか言ってるやつはかなりイタいなと思いつつ、考えています。世間の25歳にも愛について考えて欲しい。いや、それはそれでちょっと嫌だな。

人間ってやつぁ何千年も生きときながら、時に常識とか合理性とか生存本能とかを無視しやがります。結構蓄積してるはずなんですけどね、知識も経験も。その常識外れや不合理性や自殺行為に、愛が絡んでいることも多いようです。

「こうしときゃいいのに」や「ああしときゃいいのに」を、愛ってやつがひん曲げてしまうようです。頭ではそれが馬鹿げていると知っていながら、です。

確か小学生くらいの時に、新聞連載されていた宮尾登美子さんの『クレオパトラ』を毎週読んでいて、「あぁあ、もうシーザーこんなにクレオパトラにベッタリだと皆離れてっちゃうよー」って思ってて、案の定なんかダメな感じになっちゃったから、「もう、ほらー」って思った記憶が凄く強くて。よく分からないけど、誰かの何がしかへの愛情に触れると、いつもあの時と同じ気持ちが湧いてきます。なんか歯痒いんですよ。ダメになるって分かっていても止まらない感じが。

もちろん必ずダメになるわけじゃなく、大抵は円満にことが運んでいくんですけど、子供心にそういう感情が、ふわふわと定まらない不安定なもので、いつしか自分の中の何かを完全に取り去っていきそうで、怖かったんですよね。愛するということが失敗や死になんとなく繋がるような気がしたんですね。なんかあれは、今思うと、自分の根っこの何かを形作ったっぽい。愛することを快く迎える人間か、愛することを怖れて拒む人間か、ちっちゃい頃に大抵決まるんじゃないかな。

愛って煩雑だなぁと思います。面倒くさいです。僕は人を愛せません。普段の自分を見ていると本当に愛情のない男だなと思います。愛せないのか愛し方が下手なのか分かりませんが、人に限らず、一つのことに集中して愛情を注げないようです。面倒くさいからでしょうか。自分ひとりで生きたがっているのかもしれません。しかし人一倍、愛しては欲しいようです。

そのくせ人に対して「愛がない」などとなじったことがあって、今それを心の底から謝りたい気持ちでいっぱいです。「お前に言われたくない」と思ったろうな。が、ただ謝るのも癪なので、僕が何とかして成功して、あなたたちの愛のおかげで僕は立派に育ちましたよ、あなたたちに愛がないなんて嘘っぱちでした、ってことを証明してやるのです。まわりくどいな。

しかし、愛ってなんだ。昔のJポップの歌詞みたいな自問です。辞書で引くと、「そのものの価値を認め、強く引き付けられる気持ち」だそうな。

僕にとって愛は、「基本自分が生きていくのが一番大事だが、ある事柄に関しては自分を二番目に出来る」ことだと思う。人に対してだけじゃなく。仕事のために自分を犠牲にしたらそれは仕事愛だろうし、芸術のために命削ったらそれは芸術愛だし、鉄道とかアニメとかそれのためなら命惜しまないってのも趣味愛だと思うし。

愛って、自分と、他の何かという二者の関わり方の状態を指しているんじゃなかろうか。じゃあ自己愛って何だ?それは生存本能か?じゃあ普通じゃないか。よく分かりません。

人間が培ってきた理論や理性や常識というものは、もしかしたら究極的には「自分をいかに守るか」という術で、だからこそ自分を二番目にしてもいいという愛と対立するんじゃなかろうか。うーん、そうだろうか?

愛することって、よく気が付くことだと思います。よく気付く人は愛情深い人だと思います。同じ一つのものをみて、そんなことにまで気付いていたのかと思う時がよくあるんですよね。全く、僕は自分自分です。

この間、現在公演中の青☆組さんのお芝居を観て来ました。箱庭の古川さんもアフタートークに呼んでいただきまして。前回公演で女子高生役をやった本物の女子高生、井上みなみさんが出演しておりまして。僕がまだ18くらいの時に非常にお世話になった大先輩、田村元さんも出演なさってます。肌理細やかな素敵な芝居でした。自分と同世代の人たちがやっているお芝居とはまた違って、凄く刺激になりました。

やっぱりそのお芝居を観て、また愛についてぼんやりと考えたんですよね。

ものを書くということは、あらゆることに愛情を注ぐことだと思いました。日常を過ぎ行く小さな出来事も決して見落とさない、何かにショックを受けた、何かに怒ったということすら、その出来事を愛して書き落として作品にするってことが、作家の仕事だと思いました(あ、いや、青組さんのお芝居の方は全然作家の話とかじゃないんですけど、なんか巡り巡ってそんなことを考えたというか)。

だから自分にはものが書けないのだと、ほとんど絶望に近い気持ちで思い知って、これ以上書き続ける意味があるのかと思いました。

では演ずることは。それに愛が必要ないわけがない。演劇である限り、それは人間の営みから離れられないはずです。

演ずることは、自分と向き合うことだと思っていました。自分の醜さが正面から全速力で走ってくるのを、いかに直前まで目をつぶらずにいられるかという、勝負。

それだけじゃないのかも。発する言葉の一音一音、沸き起こる感情の波の一滴、指先から細胞にいたるまでのあらゆる所作、他者の表情、所作、感情、観客の吐息やその速度、頻度、照明に照らし出される細かな埃の粒、飛び交う光子、音波。あらゆるものを見落とさなければ、それだけ完全に近いものが出来るような気がします。あらゆることに気付ける体を、状態を、出来るだけ長い時間維持する。あらゆるものを受け入れてみたい。

あーあ、結局また自分の話だよ。やだやだ。

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